第3話:アナログの共犯関係――二つの縁側、一つの日陰

おばあちゃんの家は、本当に驚くほど「隣同士」だった。

都会のような高いブロック塀もなければ、プライバシーを守るための遮光カーテンもない。あるのは、大人の腰の高さほどしかない、不揃いに切り揃えられた白い生垣が一本だけ。駆のいる東側の縁側から、凛のいる西側の縁側までは、全力で石を投げれば通り過ぎてしまうほど、物理的な距離がバグのように近かった。

荷物をそれぞれの家に置き、母親たちが「積もる話があるから!」と、凛の母親の実家の方の奥座敷に集まってから、もう一時間が経過している。
「……はぁ」
駆は畳の上で大の字に寝転がり、天井で頼りなく回る古びた扇風機を見つめていた。

暇だった。
圧倒的に、残酷なまでに、やることが何もなかった。
東京にいれば、ベッドの上で動画アプリを流し見しているだけで、一日なんて一瞬で溶けていった。だが、手元にあるスマホの画面は、さっきから頑なに【圏外】の文字を掲げたまま、ただの文鎮と化している。おばあちゃんに「わいふぁいってある?」と聞いた時の、「わいふぁい? 電波ならテレビが映るよ」という無垢な笑顔が脳裏をよぎり、駆は深い絶望を噛み締めていた。

エアコンのない和室。首を振る扇風機が、かすかに生温い風を運んでくるだけだ。
庭からは、世界を塗りつぶすような蝉時雨が、容赦なく鼓膜を揺らし続けている。
あまりの退屈さに耐えかねて、駆はむくりと起き上がり、縁側へと這い出た。
木肌の剥き出しになった床は、日陰に入っているおかげで、素肌に触れると驚くほどひんやりとしていて心地いい。

ふと、生垣の向こう――隣の家の縁側に目をやった。
「……あ」。
そこに、彼女がいた。

凛は、縁側から庭に向けて細い生足を投げ出すようにして座り、所在なさげにラムネのガラス瓶を手のひらで転がしていた。学校でのあの、男子を一瞥で黙らせるような「高嶺の花」のオーラはどこにもない。大きなTシャツの首元から覗く鎖骨が、木漏れ日の光を浴びて、少し汗ばんで光っている。
カラリン、とラムネのビー玉が鳴る。
その音と同時に、凛がこちらの視線に気づき、顔を上げた。

いつもなら、気まずくなってスマホに逃げる局面だ。だが、二人とも「逃げ込めるネットの世界」を持っていない。
沈黙の中、お互いのスマホがただのデジタル時計として機能しているこの静寂の檻で、凛がふっと、力なく苦笑した。
「……本当に、なにもない所だね」

生垣を挟んで、彼女の声が真っ直ぐに届く。学校の教室では、何十人もの雑音に遮られていた彼女の声が、今は蝉の音を切り裂いて、驚くほどクリアに駆の鼓膜に響いた。
「うん。コンビニ行くのにも、自転車で15分かかるらしい」
「嘘でしょ……。私のスマホ、さっきから何も受信してくれないんだけど」
「終わったよね、この夏休み」

駆が肩をすくめると、凛は「ふふっ」と、声を立てて笑った。学校では一度も見せたことのない、年相応の、どこか悪戯っぽい笑顔だった。
「終わったね。……ねえ、成瀬くん」
「ん?」
「そっちの縁側、涼しそう」
「あ、こっちの裏庭、ちょうど山からの風が抜けるんだよ。……おばあちゃんがスイカ切ってくれたから、こっちおいでよ。どうせ暇だし」
「じゃあ、お邪魔しようかな」

凛はラムネの瓶を置くと、小さな足取りで、白い生垣の隙間を軽々とまたいだ。
都会のルールや、学校のヒエラルキーなら、絶対に超えられなかったはずの「境界線」。それが、田舎の緩い空気とデジタル飢餓というバグによって、あっさりと踏み越えられた。

トントン、と軽い足音がして、凛が駆のいる縁側に腰を下ろす。
扇風機が首を振るたびに、彼女の髪から、都会の瑞々しいシャンプーの匂いがふっと漂い、駆の胸の奥がドギマギと跳ねた。
「はい、これ」
駆がお盆から、真っ赤に熟したスイカの一切れを差し出す。井戸水でキンキンに冷やされたそれは、表面に薄く水滴をまとっていた。
「ありがとう。いただきます」
凛が小さく口を開け、シャリッ、と心地いい音を立ててスイカを齧る。
「おいしい……! すごい、本当に冷たい」
「だろ? 井戸水で冷やしてたから」
「贅沢だね。……ねえ、周りに、本当に誰もいないんだね」

凛がスイカの種を白い指先でつつきながら、遠くの突き抜けた青空を見上げた。都会では、歩くだけで向けられていた男子たちの値踏みするような視線。ネットを開けば溢れてくる、自分を消費しようとするノイズ。ここには、そのどちらも存在しない。あるのは、ただ圧倒的な夏と、自分を普通に扱ってくれるクラスメイトだけ。
凛はふぅ、と深い息を吐き、張り詰めていた肩の力を完全に抜いて、縁側の柱に背中を預けた。

「……あのさ、成瀬くん」
「なに?」
「誰もいないんだし、いつまでも苗字で呼ぶの、なんだか変じゃない? 学校じゃないんだし」
「あー……確かに。お互いのお母さんたちを呼ぶときも、ややこしいしな」
駆は少し照れくさそうに、頭の後ろをかいた。
「じゃあ……凛、さん?」
「さん、は要らない。……凛でいいよ」
凛はそう言って、スイカの種を庭に向けて、ぷっと器用に飛ばした。その無防備な動作が、たまらなく愛おしい。
「じゃあ、凛。……俺のことも、駆でいいから」
「うん。よろしくね、駆くん」

遮るもののない田舎の静寂の中で、自分の名前が彼女の声で響く。ネットが繋がらないからこそ、その一言の重みが、二人の間のパーソナルスペースを秒速で溶かしていく。
その時、隣の家の庭から、ガラガラと格子戸が開く音がして、駆のおばあちゃんが顔を出した。
「お二人さん、スイカ持って帰りなされって……あら、もう一緒におったんかね。仲が良くて何よりじゃわ」
「っ!? ち、違うよおばあちゃん!」
慌てて顔を真っ赤にする二人を見て、おばあちゃんは「にしし」と、駆の母親そっくりの顔で笑っていた。

Wi-Fiのない、不便極まりない檻。
けれど、二人のスマホのローカルフォルダには、この日から「他の誰にも見せない、お互いの素顔」が、1コマずつ静かに録画され始めていくのだった。