新幹線のリクライニングシートに深く身体を沈めながら、成瀬駆はスマホの画面を無意味にスクロールしていた。
東京駅を出発してから数十分。車窓を流れる景色は、過密なコンクリートの塊から、徐々に平坦な緑のグラデーションへとその表情を変えつつある。車内に響くのは、滑らかなモーターの駆動音と、乗客たちの抑えられた話し声だけ。エアコンの冷気が、人工的な無菌室のような静寂を維持していた。
――だが、駆の意識は、スマホの画面にも車窓の景色にもない。そのすべてのリソースは、通路を挟んだすぐ斜め前の席に座る、ある「輪郭」へと向けられていた。
水瀬凛。
学校では窓際の特等席で、他者を拒絶するかのような冷徹な美しさを纏っていた彼女が今、自分のすぐ近くで、ルーズな私服に身を包んで新幹線に揺られている。
(なんで、よりによって席がこんなに近いんだよ……)
駆は胃のあたりがじわじわと熱くなるような、奇妙な気まずさに耐えていた。母親同士が地元のスーパーで偶然再会し、「お互いの実家が近所だし、一緒に帰省しよう」という悪魔的な流れになった結果がこれだ。凛は東京の駅にいる時から、常に黒いイヤホンを耳にねじ込み、周囲のノイズを完全にシャットアウトしていた。駆の存在など、最初から視界に入っていないかのように。
ふと、スマホの画面の上部に目が留まる。さっきまで『5G』と表示されていたアンテナのマークが、トンネルを抜けるたびに『4G』へ、そしてついに一本の細いラインへと減衰していく。
チリ、と小さな電子音がして、タイムラインの更新が止まった。
【接続できません。電波の良好な場所で再度お試しください】
無機質なエラーメッセージ。デジタルな生命線が、物理的な距離の移動によって少しずつ、けれど確実に絞め殺されていく前兆だった。
やがて、列車が速度を落とす。アナウンスが流れ、目的の地方駅の名前が告げられた。
「――行くわよ、駆」
通路を挟んで、母親たちの楽しげな声が上がる。駆は小さく息を吐き、重いボストンバッグを肩にかけた。斜め前では、凛が静かに立ち上がり、一度もこちらを振り返ることなく、滑らかな動作で通路へと進んでいく。
そして、新幹線の気密性の高いドアが、プシューと音を立てて開いた。
次の瞬間、駆の鼓膜を圧迫していた人工的な静寂は、暴力的な「音」と「熱」によって一撃で粉砕された。
――そこは、世界の水分がすべて沸騰しているかのような、圧倒的な盛夏の檻だった。
「……っ、あつ……っ」
すぐ前を歩いていた凛の口から、小さく、けれど明確な、都会の仮面を剥ぎ取られた「素の声」が漏れた。
東京の冷房に慣れきっていた肌に、田舎の濃密な湿気を含んだ熱風がねっとりとへばりつく。古い駅のホームのトタン屋根からは、肉眼で見えるほどの陽炎がジリジリと立ち上り、線路の向こうにそそり立つ、もくもくとした積乱雲を不気味に歪めていた。地表から湧き上がる蝉時雨は、もはや音というよりは物理的な「振動」として、跨線橋のコンクリートをびりびりと震わせている。
制服という防壁を失った彼女の姿が、強烈な直射日光の下で剥き出しになる。白いTシャツ、短くカットされたデニムのショートパンツ。そこから伸びる生足の白さが、地方の暴力的な光を照り返して眩しいほどのコントラストを描いていた。
凛は眩しそうに目を細めると、東京では頑なに外さなかった黒いイヤホンを、ゆっくりと耳から引き抜いた。彼女の細い指先が、風鈴の音、遠くの遮断機の音、 鳴り響くセミの声を、一滴もこぼさぬようにすくい取っていく。
「あ、りっちゃん! ハルちゃん! こっちこっち!」
駅のロータリーから、出迎えてくれたおばあちゃんたちの威勢のいい声が響く。その瞬間、駆と凛の母親たちが同時に声を弾ませた。
「やっぱり田舎は空気が違うわねぇ!」
「本当! あ、ところで二人とも、おばあちゃん家、すぐ隣同士だから。荷物置いたらすぐにみんなでスイカ食べましょ!」
「……え?」
駆の思考が一瞬、停止した。隣同士? おばあちゃんの家が?
思わず隣を見ると、同じように目を見開いた凛と、完全に視線が正面から交錯した。学校では一度も、1ミリも交わることのないはずだった「高嶺の花」の瞳が、驚きで丸くなっている。
そのサラサラとした黒髪が、強烈な夕陽の逆光を受けて一瞬、白銀の糸のように輝いた。
「……成瀬、くん?」
「……水瀬、さん」
お互いの名前が、蝉時雨のノイズの中にストレートに溶けていく。
慌てて自分のスマホの画面を見る。アンテナは完全に『圏外』を示していた。Wi-Fiの電波など、この圧倒的な青空の下のどこを探しても存在しない。
都会のノイズから完全に切り離された、不便という名の世界の裂け目。誰も自分たちを知らない、静止したような田舎の土地で、二人の「誰も知らない夏休み」の歯車が、今、不器用に噛み合って回り始めた。