「ほらほら、凛ちゃん! こっちの藍色の方が、絶対にその黒髪に映えるわよ!」
「アキが昔着てたやつじゃが、仕立てが良いから今でも十分着られるて。おばあちゃんに任せなされ!」
お盆を前にしたある日の夕方。隣の凛の家から、おばあちゃんたちのはしゃいだ声が風に乗って聞こえてきた。
普段は都会のノイズから離れて静まり返っている日本家屋が、今日ばかりは妙に騒がしい。地元の小さな神社で、年に一度の夏祭りが催されるからだ。
駆は自分の部屋で、甚平に着替えて縁側に出ていた。
手持ち無沙汰に、ただの時計と化したスマホを眺める。相変わらずの圏外。
「おーい、駆。凛ちゃんが準備できたみたいだから、一緒に連れてってあげなさいよ」
奥から母親の声が響く。
「あ、うん……」
駆が返事をして立ち上がろうとした、その時だった。
ト、ト、ト……。
いつもと違う、少し不器用で、控えめな下駄の音が静かな庭に響いた。
生垣の隙間から、一歩一歩、慎重に足元を確かめるようにして、彼女がこちらの庭へと入ってくる。
「……駆くん」
少し恥ずかしそうに自分の名前を呼ぶ声に、駆は完全にフリーズした。
そこにいたのは、学校での都会的なクールビューティーでも、普段着のルーズな彼女でもなかった。
凛の母親が昔着ていたという、どこかレトロで深い藍色の浴衣。そこに、鮮やかなひまわり色の帯が、きゅっと細い腰を引きたてている。いつもは下ろしている長い黒髪は、おばあちゃんの手によって綺麗にアップにまとめられ、夕闇の中で、彼女の白く細いうなじが息を呑むほど眩しく浮かび上がっていた。
「おばあちゃんたちに、寄ってたかって着付けされちゃって……。……その、変、かな?」
凛は浴衣の袖を少し持ち上げ、上目遣いに駆の顔を覗き込んできた。
いつもなら完璧な微笑みの盾で男たちを拒絶する彼女が、今は自分の感想を待って、ほんのりと頬を桜色に染めている。
「……いや。すごく、綺麗だ」
語彙力が完全に死んだ駆の真っ直ぐな言葉に、凛は一瞬驚いたように目を見開いたあと、さらに顔を赤くして、パタパタと手で顔を仰いだ。
「もう……お世辞でも嬉しいから、許す。……じゃあ、行こっか」
夕暮れ時の、群青色へと溶けていく田舎の道を、二人は並んで歩き始めた。
下駄の音と、甚平の擦れる音が、どこか心地いいリズムを刻む。
神社の境内に近づくと、山の上から笛や太鼓の音が響いてきた。
立ち並ぶ夜店の提灯が、オレンジ色の温かい光で境内を照らし出し、リンゴ飴や焼きそばの香ばしい匂いが立ち込めていた。地元の人々で賑わうお祭りの熱気。
「すごい……なんだか、タイムスリップしたみたい」
凛が目を輝かせながら、夜店の光を見つめる。都会の大規模な花火大会とは違う、どこか素朴で、温かい空間。
けれど、境内は思いのほか混み合っていた。地元の子供たちや家族連れが、狭い参道をせわしなく行き交う。
人とすれ違うたびに、凛の肩が少しすくむ。
「あ……」
前方から走ってきた子供たちを避けた拍子に、凛の歩みが一瞬遅れ、駆との距離が少しだけ開いた。
ここが都会なら、すぐにスマホを取り出して「今どこ?」とメッセージを送れば済む話だ。けれど、二人のスマホは完全にただの鉄の塊。ここで一度はぐれてしまったら、この人混みの中で再び巡り会うのは、絶望的に難しい。
「凛!」
駆は無意識に振り返り、迷うことなく右手を伸ばした。
そして、少し汗ばんだ、凛の小さくて細い左手を、ぎゅっと掴んだ。
「っ……!」
凛の手が、びくりと跳ねる。
「ごめん、はぐれたら連絡取れないから。……このまま、掴んでて」
言い訳のような、けれど100%正当な理由。
駆が前を向いたままそう言うと、ほんの少しの沈黙のあと、掴んでいた凛の手のひらが、今度は駆の手をきゅっと握り返してきた。
「……うん。はぐれたら、困るもんね」
耳まで真っ赤にしているであろう彼女の声が、背後から小さく聞こえる。
二人はそのまま、繋いだ手のひらの熱だけを意識しながら、ゆっくりと境内を歩いた。
ラムネを一本ずつ買い、少し離れた静かな境内の階段に腰掛ける。
「ぷはっ……冷たい」
凛がラムネの瓶を口から離し、ふぅと息を吐く。提灯のオレンジ色の光が、彼女の浴衣の藍色と、少し潤んだ瞳を美しく反射していた。
お祭りの賑やかな音が遠くで鳴り響いている。
けれど、スマホの画面に邪魔されない二人の間には、まるで世界で一番静かで、甘やかな時間が流れていた。
「駆くん」
「ん?」
「……手、繋いでくれて、嬉しかった」
凛はラムネの瓶を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
学校でのどんな言葉よりも、それは真っ直ぐに駆の胸の奥深くへと突き刺さった。