プロローグ:交点ゼロの平行線

成瀬駆(なるせ かける)にとって、水瀬凛(みなせ りん)は「同じ空気を吸っているだけの異星人」だった。

7月の終わりの、ねっとりとした熱気がまとわりつく終業式の日の教室。「やっと夏休みかよー!」と騒ぐ男子たちの声や、机を引くガタガタとした雑音の中で、彼女の周りだけは、まるで目に見えないガラスの防壁で隔てられているかのように静まり返っていた。

窓際の特等席。外からの強い陽光を浴びて、サラサラとした黒髪が綺麗な輪郭を描いている。
水瀬凛。
2年B組が誇る――いや、この学校全体が遠巻きに眺めるだけの「学園一の美少女」だ。

「なぁ成瀬、お前さっきから水瀬さんのこと見すぎ。気持ちは分かるけど、諦めろって。あそこは別世界だから」
隣の席の友人に肩を小突かれ、駆は苦笑いしながら視線を自分のノートへと戻した。
「見てないって。ただ、窓際が眩しかっただけだよ」

嘘ではない。彼女は文字通り、眩しすぎた。
男子たちがどれだけスマートを装って声をかけようが、凛はいつも「あ、うん」の一言で、完璧な、けれど冷徹な微笑みの盾を使って相手を追い返す。誰も彼女の聖域(パーソナルスペース)に踏み込むことはできないし、彼女もまた、誰かに興味を持つことなんてない。

クラスメイトになって4ヶ月。
駆と凛の間で交わされた会話は、
「成瀬くん、これ後ろに回して」
「あ、うん。ありがと」
という、プリントを配る時のわずか3秒、たった一度きり。それが、高校2年生の夏までに積み上げた、二人の全歴史だった。

彼女の耳には、常に都会の洗練されたノイズを流し込むための黒いワイヤレスイヤホンがねじ込まれている。
スマホの画面を滑らかな指先でスクロールし、無限に更新されるSNSのタイムラインを見つめる彼女の横顔は、完璧にデジタルで、完璧に都会の絵の具で塗られていた。

片や、教室の真ん中で可もなく不可もない日々を送る、その他大勢の一般生徒である自分。
片や、誰も触れられない、画面の向こうのアイドルのような存在の彼女。
二人の関係は、同じ教室という箱の中に用意された、交わることのない二本の平行線。
明日から始まる夏休みが終われば、また9月に、この気まずいほど遠い距離感のまま、お互いを空気のように扱いながら新学期を迎えるはずだった。

この日の夕方。
お互いの母親から「明日、一緒に新幹線で田舎に帰るからね!」という、世界をひっくり返すような連絡が入ることなど、二人はまだ、1ミリも知る由がなかった。