第7話:お盆と、完全なる二人きり――親たちの帰還、そして深夜の勉強会

お盆の真ん中、お互いの母親たちが「仕事の都合で、先に東京に戻るわね」と、嵐のように去っていった。
おばあちゃんたちも地元の寄り合いで夜遅くまで出払っており、今、この生垣で繋がった二つの家には、本当に駆と凛の二人しかいない。

時刻は、深夜の11時を回ったところだった。

「――ねえ、駆くん。こっちの数学の証明、全然意味が分かんないんだけど」

駆の部屋の畳の上。夏休みの宿題の参考書を広げた凛が、シャーペンの後ろでトントンと頭を叩きながら、少し拗ねたような声を上げた。

お祭りの夜を経て、二人の間にある空気は完全に変わっていた。
今の凛は、ゆったりとしたTシャツにショートパンツという、学校では絶対に見せない究極のリラックススタイル。アップにしていた黒髪はサラリと下ろされ、首筋に数本、汗で張り付いているのが妙に生々しい。

「どれ? ……あー、これは最初にこの公式を当てはめるんだよ」
駆は少し身を乗り出し、凛のすぐ横からノートを覗き込んだ。

その瞬間、凛が「ん?」と顔をこちらに向けたため、二人の距離が、わずか数センチのところでピタッと止まった。
お互いの吐息が、エアコンのない部屋の生温い空気を伝って肌に触れる。
凛のシャンプーの匂いと、少し高くなった体温が、ダイレクトに駆の脳内を揺さぶった。

「……っ」
駆が思わず息を呑むと、凛は逃げるどころか、悪戯っぽく微笑んで、さらに一歩、じわりと距離を詰めてきた。

「なぁに? 駆くん、顔赤いよ?」
「赤くないって。……ちょっと、距離近くないか?」
「いいじゃん。ここ、誰もいないんだし。ネットにも繋がらない、私と駆くんだけの世界でしょ?」

お祭りの夜、誰もいない高台で見せたあの切ない表情はどこへやら、今の凛は驚くほど積極的で、甘えるような眼差しを駆に投げかけてくる。自分を守るための『高嶺の花の仮面』は、もう完全に粉砕されていた。

凛はノートをパタンと閉じると、参考書の上に顎を乗せて、駆をジッと見上げた。

「スマホが鳴らないって、本当にすごいね。東京にいる時は、友達のSNSとか、どうでもいい通知ばっかり気にして、ずっと心がチクチクしてたのに……。今はね、駆くんの声と、この蝉の音しか聞こえないの。それが、すっごく心地いいの」

そう言って、凛は自分のスマホの画面をポンとタップした。表示されるのは、もちろん【圏外】。

「ねえ、駆くん。……私のローカルフォルダ、見る?」
凛はそう言うと、スマホを駆の方へと差し出してきた。

画面に映し出されていたのは、この数日間の二人の記憶だった。
縁側でスイカを食べている駆の不意打ちの横顔、あぜ道でかき氷を持って笑う二人の自撮り、そして――あの花火の夜、高台で手を繋いだまま、お互いを見つめ合っている影(シルエット)。

「いつの間に撮ったんだよ、これ……」
「駆くんばっかり撮るから、私も仕返し。これね、世界で私しか持ってないデータなんだから」

凛は嬉しそうに胸を張ると、不意にスマホを畳の上に置き、駆の甚平の袖をキュッと掴んだ。

「東京に帰りたくないな……。学校が始まったら、また遠くから見るだけの関係に戻っちゃうの、絶対に嫌だよ」

ストレートすぎる、本気の好意。
お祭りの夜の「約束」を、彼女は一瞬たりとも忘れていなかった。

駆は、袖を掴む凛の手の上に、自分の手をそっと重ねた。
ぎゅっと握りしめると、凛の肩がビクリと震え、けれどすぐに安心したように、その細い指先が駆の手と絡み合う。

「戻らないよ。学校が始まっても、俺は絶対に、凛を一人にさせない。教室のどこにいたって、俺が一番に、凛のことを見つけるから」

駆の真っ直ぐな言葉に、凛の瞳がジワリと潤む。
彼女は小さくコクンと頷くと、吸い寄せられるように、駆の肩へとその頭を預けてきた。

「……うん。信じてる、駆くん」

外からは、夜になっても止まない、どこか切ない蝉の残響が聞こえてくる。
エアコンのない、沸騰したような夏の深夜。
けれど、繋いだ手のひらから伝わる熱だけが、お互いにとっての、世界で一番甘くて確かな「リアル」だった。