9月1日。2年B組の教室は、いつも通りの退屈で騒がしい「日常」に巻き戻っていた。
「うわー、マジで学校始まったわ……」
「夏休み、秒で終わったんだけど」
男子たちは汗臭い制服の襟を引っ張りながら、休み中のゲームやSNSの話題で無駄に声を張り上げている。
成瀬駆は、教室の真ん中の可もなく不可もない自分の席に座り、通学鞄から教科書を取り出していた。
ガラガラ、と前方の戸が開く。
その瞬間、さっきまでガヤガヤと騒いでいた男子たちの声が、潮が引くようにピタリと止まった。教室の温度が、一瞬で2度ほど下がったかのような静寂。
水瀬凛が、教室に入ってきた。
サラサラとした黒髪、完璧にアイロンのあてられた制服。耳には、周囲の雑音を100%シャットアウトするための、あの黒いワイヤレスイヤホン。
夏休み前と何も変わらない、誰も近づけない「学園一の美少女」の完全な姿がそこにあった。
「おい、見ろよ……水瀬さん、夏休み明けてさらに綺麗になってね?」
「ガチだな。でも相変わらず話しかけんなオーラ全開だわ。話しかけにいって玉砕したガリ勉の田中、今も目が死んでるぞ」
男子たちが遠巻きにヒソヒソと囁き合う。凛はそんな視線に一瞥もくれず、窓際の特等席へと真っ直ぐに歩いていく。
誰もが、いつも通りの「平行線」だと思っていた。駆の隣の席の友人も、「あーあ、別世界の住人は今日も眩しいわ」と鼻を鳴らした、その時。
凛が、駆の席の真横で、ピタリと足を止めた。
「……え?」
隣の友人がマヌケな声を出す。教室中の視線が、一斉に駆の席へと集中した。
凛はゆっくりと耳から黒いイヤホンを外すと、それを制服のポケットにしまい――そして、学校中の誰も見たことのない、蜂蜜が溶け出したような極上の、甘い微笑みを駆に向けた。
「――駆くん、おはよう」
ドサドサドサッ!!!
教室のあちこちで、教科書や筆箱が床に落ちる凄まじい音が響いた。
「今、水瀬さんが……成瀬を、名前で……?」
「しかも、くん付け……? え、あのアキレス腱すら触らせてくれなさそうだった水瀬さんが……!?」
男子たちの脳の処理能力(キャパシティ)が完全にオーバーヒートし、教室は文字通り【完全凍結】した。ガリ勉の田中いたっては、持っていたシャーペンを握りつぶしそうな勢いでフリーズしている。
周囲の脳破壊パニックなど、今の二人の視界には1ミリも入っていない。
「うん、凛。おはよう。……髪、下ろしてるのもいいけど、俺はあのアップにしてたやつも好きだよ」
駆が少し悪戯っぽく、あの田舎の夜のトーンのまま、ごく自然に微笑み返す。
「っ……! も、もう、学校なんだから意地悪言わないで」
凛は一瞬で頬を林檎のように真っ赤に染めると、恥ずかしそうに両手で顔を隠し、ツカツカと自分の席へと歩いていってしまった。窓際の席に座ったあとも、チラチラと駆の方を盗み見ては、机に突っ伏して耳まで赤くしている。
「「「「はあああああああああああ!!!!?????」」」」
B組の男子全員の絶叫が、心の中で綺麗にシンクロした。
あの鉄壁の美少女が、その他大勢のはずの成瀬相手に、完全に「恋する乙女の顔」をしている。
隣の席の友人が、壊れたロボットのような動きで駆の肩を掴み、ガタガタと揺さぶってきた。
「成瀬……お前、夏休みに一体何があったんだよ……! 説明しろよ! 電波の繋がらない裏世界にでも行ってたのかよ!!」
「いや……」
駆は窓際でまだ顔を赤くしている凛と視線を合わせ、ふっと優しく笑った。
「本当に、電波の繋がらない世界に行ってたんだよ。二人きりでさ」
都会のノイズがどれだけ戻ってこようが、周りがどれだけ騒ごうが、もう二人の距離が変わることはない。
世界で一番不便で、世界で一番甘かったあの夏休みのフォルダは、今も二人の心の中で、最高の解像度で再生され続けていた。