スーパーでのあの「悪魔の契約」から一週間後。
蒼太は、父親が運転するミニバンの後部座席で、深くため息をついていた。
車のエアコンは無菌室のように冷え切っているが、窓の外の景色は、過密なコンクリートの塊から、徐々に平坦な緑のグラデーションへとその表情を変えつつある。
手元にあるスマホの画面を見る。さっきまで『5G』と表示されていたアンテナのマークが、トンネルを抜けるたびに『4G』へ、そしてついに一本の細いラインへと減衰していく。
チリ、と小さな電子音がして、オンラインゲームのローディングが止まった。
【接続できません。電波の良好な場所で再度お試しください】
「嘘だろ……完全に死んだ……」
無機質なエラーメッセージ。デジタルな生命線が、物理的な距離の移動によって少しずつ、けれど確実に絞め殺されていく。11歳の夏休み、お気に入りのゲームイベントにログインすらできない絶望が、蒼太の胸にずっしりとのしかかった。
やがて、蒼太を乗せたミニバンは速度を落とし、舗装の荒いアスファルトの山道を抜ける。
「ほら蒼太、着いたわよ! 懐かしいわねぇ!」
助手席の母親が声を弾ませ、車の窓をガラガラと全開にした。
その瞬間、気密性の高かった車内の人工的な静寂は、暴力的な「音」と「熱」によって一撃で粉砕された。
――そこは、世界の水分がすべて沸騰しているかのような、圧倒的な盛夏の檻だった。
「うわ、あつっ……!」
東京の冷房に慣れきっていた肌に、田舎の濃密な湿気を含んだ熱風がねっとりとへばりつく。
古い日本家屋のトタン屋根からは、肉眼で見えるほどの陽炎がジリジリと立ち上り、線路の向こうにそそり立つ、もくもくとした積乱雲を不気味に歪めていた。
地表から湧き上がる蝉時雨は、もはや音というよりは物理的な「振動」として、周囲の空気をびりびりと震わせている。
車から降り、重いボストンバッグを肩にかけて、おばあちゃんの家の縁側へと這い出た。
木肌の剥き出しになった床は、日陰に入っているおかげで、素肌に触れると驚くほどひんやりとしていて心地いい。
暇だった。
圧倒的に、残酷なまでに、やることが何もなかった。
スマホの画面は、さっきから頑なに【圏外】の文字を掲げたまま、ただの文鎮と化している。
あまりの退屈さに耐えかねて、蒼太は縁側から庭に向けてぼんやりと視線を投げた。
都会のような高いブロック塀もなければ、プライバシーを守るための遮光カーテンもない。あるのは、大人の腰の高さほどしかない、不揃いに切り揃えられた白い生垣が一本だけ。
ふと、その生垣の向こう――隣の家の縁側に目をやった。
「……あ」
そこに、彼女がいた。
学校でのあの、男子を一瞥で黙らせるような「高嶺の花」のオーラはどこにもない。
怜奈は、縁側から庭に向けて真っ白で細い生足を投げ出すようにして座り、所在なさげにラムネのガラス瓶を手のひらで転がしていた。
大きめの真っ白なTシャツに、デニムのショートパンツ。その首元から覗く華奢な鎖骨が、木漏れ日の光を浴びて、少し汗ばんで光っている。
カラリン、とラムネのビー玉が鳴る。
その音と同時に、怜奈がこちらの視線に気づき、顔を上げた。
いつもなら、気まずくなってスマホに逃げる局面だ。だが、二人とも「逃げ込めるネットの世界」を持っていない。
沈黙の中、お互いのスマホがただのデジタル時計として機能しているこの静寂の檻で、怜奈がふっと、力なく苦笑した。
「……本当に、なにもない所ですわね、柊くん」
生垣を挟んで、彼女の声が真っ直ぐに届く。学校の教室では、何十人もの雑音に遮られていた彼女の澄んだ声が、今は蝉の音を切り裂いて、驚くほどクリアに蒼太の鼓膜に響いた。
「うん。コンビニ行くのにも、自転車で15分かかるらしいよ」
「嘘でしょう……。わたくしのスマホ、さっきから何も受信してくれませんの。終わりましたわ、この夏休み」
怜奈が肩をすくめると、蒼太は「ふふっ」と笑った。すると怜奈も、学校では一度も見せたことのない、年相応のどこか悪戯っぽい笑顔を見せた。
その瞬間、山から吹き降ろした突風が、二人の間を吹き抜ける。
わっと視界が開けるような、圧倒的な夏のパノラマ。
目が痛くなるほどの鮮烈な「緑」の稲穂が、巨大な海のように波打ち、その遥か彼方では、白銀に輝く積乱雲が世界の境界線を形作っている。
強烈な直射日光(ノスタルジーのフィルター)を浴びて、怜奈の白金(プラチナ)の髪が一本一本、黄金の糸のようにきらめき、その広大な蒼い世界が、彼女のガラス細工のような青い瞳(アクア)の中に、一滴もこぼさぬようにそのまま映り込んでいた。
景色と、ヒロインが、完全にシンクロして世界を共有している――。蒼太はその美しさに、不覚にも息を呑んだ。
「……ねえ、柊くん」
「ん?」
「そっちの縁側、涼しそうですわ」
「あ、こっちの裏庭、ちょうど山からの風が抜けるんだよ。……おばあちゃんがスイカ切ってくれたから、こっちおいでよ。どうせ暇だし」
「じゃあ……お邪魔しようかしら」
怜奈はラムネの瓶を置くと、小さな足取りで、白い生垣の隙間を軽々とまたいだ。
都会のルールや、学校のヒエラルキーなら、絶対に超えられなかったはずの「白い生垣という境界線」。それが、田舎の緩い空気とデジタル飢餓というバグによって、あっさりと踏み越えられた。
トントン、と軽い足音がして、怜奈が蒼太のいる縁側に腰を下ろす。
彼女が緊張を隠すように、人差し指で伊達メガネのブリッジをクイと押し上げる。その指先が、わずかに震えているのが見えた。
扇風機が首を振るたびに、彼女の髪から、あの都会の瑞々しいシトラスの匂いがふっと漂い、蒼太の胸の奥がドギマギと跳ねた。
「はい、これ」
蒼太がお盆から、真っ赤に熟したスイカの一切れを差し出す。井戸水でキンキンに冷やされたそれは、表面に薄く水滴をまとっていた。
「ありがとう。……いただきますわ」
怜奈が小さく口を開け、シャリッ、と心地いい音を立ててスイカを齧る。
「おいしい……! すごいですわ、本当に冷たい」
「だろ? 井戸水で冷やしてたから」
「贅沢ですわね。……ねえ、本当に、周りに誰もいませんのね」
怜奈がスイカの種を白い指先でつつきながら、遠くの突き抜けた青空を見上げた。
都会では、歩くだけで向けられていた値探るような視線。ネットを開けば溢れてくるノイズ。ここには、そのどちらも存在しない。あるのは、ただ圧倒的な夏と、自分を普通に扱ってくれるクラスメイトだけ。
怜奈はふぅ、と深い息を吐き、張り詰めていた肩の力を完全に抜くと、緊張を解くようにいつものブラウスの袖口ではなく、Tシャツの裾をきゅっと握りしめた。
「……あのさ、柊くん」
「なに?」
「誰もいませんし、いつまでも苗字で呼ぶの、なんだか変じゃありませんこと? 学校じゃありませんのし」
「あー……確かに。お互いのお母さんたちを呼ぶときも、ややこしいしな」
蒼太は少し照れくさそうに、頭の後ろをかいた。
「じゃあ……怜奈、さん?」
「さん、は要りませんわ。……怜奈でいいです」
怜奈はそう言って、スイカの種を庭に向けて、ぷっと器用に飛ばした。お嬢様らしからぬその無防備な動作が、たまらなく愛おしい。
「じゃあ、怜奈。……俺のことも、蒼太でいいから」
「ええ。よろしくね、蒼太くん」
遮るもののない田舎の静寂の中で、自分の名前が彼女の声で響く。
ネットが繋がらないからこそ、その一言の重みが、二人の間のパーソナルスペースを秒速で溶かしていくのだった。