縁側で名前を呼び合ってから数日。
電波の繋がらない不便さに絶望していたはずの蒼太は、気づけば毎日、白い生垣をまたいでやってくる怜奈と一緒に過ごしていた。
昼下がりのじっとりとした暑さの中、二人はおばあちゃんに教えてもらった小さな駄菓子屋の帰り道を歩いていた。怜奈はイチゴ味のかき氷が入ったプラスチックのカップを大事そうに両手で持ち、スプーンでシャリシャリと音を立てている。
学校では完璧に整えられていた白金のハーフアップは、心なしか少し崩れていて、うなじのあたりに数本の遅れ毛が汗で張り付いていた。
都会では絶対にあり得ないその無防備な姿が、今の蒼太にとっては、この田舎の風景よりもずっと特別に見えていた。
「おいしいですわ、蒼太くん。東京で食べる高級なグラニテも素敵ですけれど、このチープな甘さ、癖になりそうですわね」
「グラニテって何だよ。それ、ただの100円のかき氷だけどな」
「いいのです。冷たくて甘ければ、今のわたくしには等しく正義ですから」
怜奈はそう言って、イチゴシロップでほんのり赤くなった舌を小さく覗かせて悪戯っぽく笑った。
その時だった。
遠くの山の方から、ゴロゴロと空を震わせる低い音が響いた。見上げると、さっきまでカリフラワーのように白く輝いていた積乱雲の底が、まるで墨汁を流し込んだかのように急速にどす黒く変色していく。
突如として、生ぬるい風が強烈に吹き抜けた。
あぜ道の向こうから、アスファルトが濡れた独特の匂いが一気に押し寄せてくる。
「ひゃっ……!? な、なんですの、この風……」
「やばい、夕立が来る! 怜奈、走るぞ!」
「え、ええっ!? 走るなんてはしたない――」
「言ってる場合かって!」
蒼太は怜奈の手首を掴み、あぜ道を走り出した。直後、バラバラバラと大粒の雨が降ってきて、一瞬にして周囲の視界を真っ白に染め上げた。激しい雨のカーテンが、夏の彩度の高い景色をすべて白く塗り潰していく。
「こっちだ!」
蒼太が滑り込んだのは、畑の脇にある古びた農機具小屋の軒下だった。
トタンの屋根がバチバチと耳を劈くような雨音を立てている。大人二人が入ればいっぱいに進むほどの小さな木造の軒下に、二人は飛び込むようにして身を寄せ合った。
「……冷たっ……! すごい雨ですわね……!」
怜奈は肩をすくめ、真っ白なTシャツの裾をぎゅっと握りしめて小さくなっていた。
完全に二人きりの、狭い雨宿りの空間。
外の雨音が大きすぎるせいで、この軒下だけが世界から切り離されたかのような、奇妙な密室感が生まれていた。
すぐ隣にいる怜奈から、激しい雨の匂いに混ざって、あの淡いシトラスの香りと、かき氷の甘いイチゴの匂いが漂ってくる。
近すぎる距離に、蒼太の心臓が雨音に負けないくらい大きな音を立て始めた。
「……服、濡れちゃったな。大丈夫?」
「ええ。少し、肌寒いですけれど……」
怜奈が両腕で自分の身体を抱きしめるようにして、小さく身震いする。
蒼太はポケットからスマホを取り出した。画面には相変わらず冷酷に圏外の文字が躍っている。
「やっぱり繋がらないか……。天気予報も見られないや」
「本当に、ただの鉄の板ですわね。東京にいた時は、あれがなくては生きていけなかったのに」
怜奈が蒼太のスマホを覗き込んできた。彼女の濡れた白金の髪が蒼太の頬に触れ、冷たい雫が首筋に滴る。
「……あ、でも、カメラなら使えるよ」
「カメラ、ですか?」
「うん。電波がなくても写真は撮れるだろ。せっかくだから、撮っておこうよ。この、すごい夕立」
蒼太がカメラアプリを起動し、白い雨のカーテンに向けてレンズを向けた。
画面に映る田舎の景色は、激しい雨のせいでどこかノスタルジックな、淡いフィルターがかかったように歪んで見える。
カシャ、と電子音が響く。
「……わたくしも、撮ってほしいですわ」
ボソッと、雨音に消されそうな小さな声で、怜奈が言った。
蒼太が驚いて隣を見ると、彼女は恥ずかしそうに、でも真剣なアクアの瞳で蒼太を見つめていた。
「いいよ。じゃあ、こっち向いて」
蒼太がスマホのレンズを怜奈に向ける。
液晶画面の四角い枠の中に、白金の髪を少し濡らし、イチゴ味で唇をほんのり赤くした白鷺怜奈が収まる。
彼女は一瞬、いつものように人差し指で伊達メガネをクイと上げてすましてみせたが、すぐに恥ずかしくなったのか、メガネを外してレンズを真っ直ぐに見つめた。
その瞬間、雲の切れ間から一筋の西日が差し込み、雨の粒をキラキラとプリズムのように輝かせた。
光を浴びた怜奈のアクアの瞳の中に、スマホのレンズと、それを見つめる蒼太の姿が綺麗に反射している。
カシャ。
「……綺麗に撮れましたこと?」
「うん。めちゃくちゃ綺麗」
「見せてくださいまし」
怜奈がスマホの画面を一緒に見ようと、さらに距離を詰めてくる。
触れ合う肩の熱が、雨で冷えた身体に心地よく伝わっていく。
ネットには繋がらない。誰にも送信できない。
けれど、このスマホの中にだけ、世界で二人しか知らない「11歳の夏の記憶」が、確実なデータとして保存された。
やがて、雨音が少しずつ小さくなり、遠くの空に大きな虹が架かり始める。
世界を共有するということの本当の意味を、蒼太は激しい雨の匂いの中で、確かに知りはじめていた。