おばあちゃんの家の居間で、大人たちの賑やかな笑い声が響いていた。
丸いちゃぶ台の上には、大皿に盛られた唐揚げや、地元の新鮮な野菜が並んでいる。東京でのママ友同士に戻った母親たちは、ビール缶を片手に少女時代にタイムスリップしたかのように話し込んでいた。
「ねえ、蒼太くん、怜奈ちゃん。そろそろ裏の川に、蛍が綺麗に出る時間よ」
怜奈の母親が、時計をチラリと見ながら優しく微笑んだ。
「お母様、私たちはここに残っていますわ。お話の邪魔をしては悪いですし」
怜奈はいつも通り、お行儀よく膝の上で手を重ねてそう言ったが、Tシャツの裾を少しだけきゅっと握りしめていた。退屈しているのを母親に見抜かれたのが恥ずかしいのだろう。
「いいのよ、大人たちはまだまだ積もる話があるんだから。蒼太、怜奈ちゃんを連れて、裏の川まで行ってきなさい。あまり遠くに行かないようにね」
蒼太の母親が、悪戯っぽくウインクしながら二人の背中を押す。
大人が見守ってくれている安心感。けれど同時に、そこから一歩外へ出れば、誰にも邪魔されない二人だけの時間が約束される。
そんな大人たちの粋な気遣いに感謝しながら、蒼太と怜奈は懐中電灯を一つだけ持って、夜の静寂へと足を踏み出した。
一歩外へ出ると、昼間の暴力的な暑さはどこへやら、夜の田舎はひんやりとした涼しい空気に満ちていた。
東京のように街灯が等間隔にあるわけではない。足元を照らす懐中電灯の細い光の他は、ただ深い、吸い込まれそうな青黒い闇が広がっている。
見上げると、パノラマの夜空には、都会では決して見ることのできない満天の星々が、今にも降ってきそうなほどの輝きで散らばっていた。
「……すごいですわ。星が、こんなに近くに見えるなんて」
怜奈は小さく息を呑み、伊達メガネを外して夜空を見上げた。彼女の綺麗なアクアの瞳が、星屑の光を反射してチカチカと瞬いている。
ガサリ、と草むらで小さな音がした。
「ひゃっ……!?」
怜奈が小さく悲鳴を上げて、とっさに蒼太の腕の裾をギュッと掴んできた。
「な、なんですの……? 今、何かが動きましたわ……」
「ただのカエルか虫だよ。ほら、もうすぐ川だから、足元気をつけて」
少し震えている怜奈の手。学校の教室では、男子を寄せ付けない鉄壁の委員長だった彼女が、今は暗闇の怖さに怯える、普通の11歳の女の子になっていた。
蒼太は少し照れくささを隠すように、懐中電灯の光を彼女の足元に向けて、ゆっくりと歩みを進めた。
せせらぎの音が、だんだんと大きく聞こえてくる。
川べりにたどり着き、蒼太が懐中電灯のスイッチをパチリと切った。
視界が完全な闇に包まれた、その直後だった。
「……あ」
怜奈の口から、感嘆の吐息が漏れた。
漆黒の闇の中、川のせせらぎに沿って、ぽつり、ぽつりと、淡い緑色の光が灯り始めた。
それは一つ、二つと増えていき、やがて数十、数百の光の粒子となって、水面の上をなぞるようにゆっくりと宙を舞い始めた。
まるで、星空がそのまま地上に降りてきて、優しく呼吸をしているかのような、幻想的な光景。
「綺麗……本当に、夢のようですわ……」
怜奈は掴んでいた蒼太の袖を離し、ふらふらと光の舞う方へと引き寄せられていく。
風に揺れる白金の髪。その白い肌が、かすかな蛍の緑色の光に照らされて、まるで彼女自身が発光しているかのように神秘的に見えた。
一匹の蛍が、迷い込むようにして怜奈の目の前へ飛んできた。
怜奈はそっと、両手を器のように丸めて差し出す。柔らかな緑の光が、彼女の手のひらの上で、優しく、明滅した。
「見て、蒼太くん。わたくしの手の中で、光っていますわ」
「うん。すごいな。東京じゃ絶対に見られないや」
ネットの動画でも、テレビの画面でもない。電波の届かないこの場所で、二人だけで共有している本物の世界。
「……ねえ、蒼太くん」
怜奈が手のひらの蛍をそっと空へ帰し、恥ずかしそうにうつむきながら、ブラウスの代わりにサマーニットの袖をぎゅっと握りしめた。
「学校に戻っても……わたくしのこと、ちゃんと名前で呼ぶことは……できますこと?」
「え?」
「東京に戻ったら、またみんなの前では、わたくし、お嬢様を演じなくてはなりませんわ。でも……蒼太くんの前でだけは、ただの怜奈でいたいですの」
潤んだアクアの瞳が、闇の中で真っ直ぐに蒼太を見つめていた。
それは、都会で孤独だったお嬢様が、初めて他人に明かした本当の願いだった。
「うん。約束するよ、怜奈。学校でも、二人の時はちゃんと名前で呼ぶから」
「……ふふ、よかったですわ。破ったら、お仕置きですからね」
怜奈はいつもの伊達メガネをクイと上げ、少しはにかむように微笑んだ。
遠くから、おばあちゃんの家の明かりと、大人たちの楽しげな笑い声が微かに聞こえてくる。
守られた世界の中で、二人の距離は、この夜の闇よりも深く、確実に重なり合っていくのだった。