蛍の舞う川べりを離れ、二人はおばあちゃんの家へと続く一本道をゆっくりと歩いていた。
懐中電灯の光を消してみると、夜の田舎は決して「静か」ではなかった。
むしろ、都会のどんな交差点よりも騒がしい。
ざざざ、と風に揺れる田んぼの稲穂の音。
道路の脇を並走する用水路からは、絶え間なく冷たい水がコンクリートを削るように、さらさら、ごぼごぼと澄んだ音を立てて流れている。
さらにその奥の暗闇からは、何千匹いるかもわからないカエルたちの地響きのような大合唱と、名前も知らない夏虫たちの高音のさえずりが重なり合い、まるで巨大な夜のオーケストラのようになって空間を満たしていた。
空気はどこか生暖かい。けれど、時折そこへ、用水路の水で冷やされたひんやりとした夜風が混ざり込んで、蒼太たちの肌を優しく撫でていく。
「……にぎやかですわね。東京の夜は車の音ばかりでしたけれど、ここは、命の音がしますわ」
怜奈が小さく呟いた。下駄ではなく、まだ履き慣れたスニーカーだから、アスファルトを蹴る音だけが規則正しく二人の間に響く。
「うん。最初に来た時はうるさくて眠れなかったけど、慣れると、これがないと寂しくなるんだよな」
「分かりますわ。なんだか……守られているような、不思議な気持ちになりますの」
怜奈はそう言って、ふと足を止めた。
あぜ道の真ん中。周囲に遮るものが本当に何もない、視界が360度開けたパノラマの空間。
「蒼太くん、ちょっとだけ、あそこに座りませんこと?」
怜奈が指差したのは、用水路に架けられた小さなコンクリートの橋の縁だった。
大人が座ればいっぱいになるような、ささやかな特等席。
「いいよ。お母さんたち、まだ話し込んでるだろうしね」
二人は並んでコンクリートの縁に腰を下ろした。
足をぶら下げると、すぐ真下を流れる用水路の冷気が、ふわりとふくらはぎを冷やす。すぐ隣からは、夜風に乗って、怜奈の白金髪から香る淡いシトラスの匂いが、カエルの鳴き声の隙間を縫うようにして蒼太の感覚をくすぐった。
二人はどちらからともなく、深く、吸い込まれそうな夜空を見上げた。
満天の星空。
都会では一等星すら霞むのに、ここでは名前も知らないような十四等星の、今にも消えそうなかすかな光までが、夜の帳にびっしりと敷き詰められている。
天の川が、白い絵の具をハケで引いたように、夜空の端から端へと大胆に流れていた。
「……ねえ、蒼太くん」
「ん?」
「東京にいた時、わたくし、ときどき息ができなくなっていましたの」
怜奈は膝を抱え、顎をその上に乗せながら、星の海を見つめたまま静かに語り出した。
「見た目がハーフだから、お家が大きいから、言葉遣いが変だから。みんな、わたくしの外側だけを見て、値踏みするようにヒソヒソと話すのですわ。インターネットを開いても、見ず知らずの誰かの悪意が溢れていて……。世界はあんなに狭くて息苦しいのに、どうして誰も助けてくれないのかしらって」
彼女の横顔を、星屑の淡い光が優しく照らす。
学校でのあの完璧な防壁、伊達メガネという盾の裏側に隠されていた、11歳の少女の本当の孤独。
「でも、ここには電波も届きませんし、わたくしを『白鷺家のお嬢様』として見る人もいません。この大きな夜空の下では、わたくしの悩みなんて、あの光ることもできない小さな星の粒と同じくらい、どうでもいいことに思えてきますの」
怜奈はそっと、抱えていた脚を伸ばし、用水路の音に耳を澄ませるように目を閉じた。
「不便で、なにもなくて、生暖かくて……。でも、人生で一番、今が心地いいですわ」
その言葉は、蒼太の胸の奥の一番柔らかい部分に、すとんと落ちてきた。
ゲームのイベントが進まないとか、ネットが繋がらないとか、そんなことはもう本当にどうでもよくなっていた。
「……俺もさ」
蒼太は、コンクリートに手を突きながら言った。
「怜奈が隣にいてくれて、よかったよ。一人だったら、ただの退屈な田舎だと思ってた。でも、怜奈と一緒にこの景色を見てると……なんか、この夏休みが終わってほしくないなって思うんだ」
カエルの大合唱が、一瞬だけ遠のいた気がした。
怜奈がハッと目を開け、驚いたように蒼太を見た。
彼女のアクアの瞳が、星空よりも優しく潤んでいる。
「……ずるいですわ、蒼太くん。そんなこと、不意打ちで言うなんて」
怜奈は顔を隠すように、また伊達メガネをクイと上げた。けれど、その指先は少しだけ震えていて、メガネの奥の耳の付け根が、夜の闇の中でも分かるくらいに赤く染まっていた。
「……お母様たちに、怒られてしまいますわね。早く戻りましょう」
「うん。そうだね」
二人は立ち上がり、再びおばあちゃんの家へと歩き出す。
歩幅を合わせるたびに、二人の手の甲が、かすかに何度も触れ合った。
手を繋ぐ一歩手前の、もどかしくて、でも最高な距離感。
遠くで鳴り響く虫の声と、足元を流れる水の音。
そのすべてが、二人のためだけに用意された特別な夜のBGMだった。