田舎の短い夏の終わりを告げる、地元の小さな神社の夏祭りの日がやってきた。
蒼太はお風呂上がりの甚平姿で、縁側に座ってラムネの瓶を転がしていた。ちりん、と南部鉄器の風鈴が、生温い夜風に揺れて澄んだ音を立てる。明日には東京へ戻らなければならないという現実が、用水路の水の音や遠くの虫の声に混ざり合って、胸の奥をチクリと刺した。
「――おーい、蒼太。怜奈ちゃんの準備ができたみたいだから、一緒に連れてってあげなさい」
奥の居間から母親の声が響く。蒼太はラムネ瓶を置くと、白い生垣をまたいで隣の家の庭へと足を踏み入れた。
ト、ト、ト……。
いつもとは違う、少し不器用で控えめな下駄の音が、静かな庭に響いた。生垣の隙間から、一歩一歩、慎重に足元を確かめるようにして、彼女が現れた。
「……蒼太くん」
少し照れくさそうに自分の名前を呼ぶ声に、蒼太は完全にフリーズした。
そこにいたのは、学校での都会的なクールビューティーでも、普段着のルーズな彼女でもなかった。
怜奈の母親が昔着ていたという、どこかレトロで深い藍色の浴衣。そこに、鮮やかなひまわり色の帯が、きゅっと細い腰を引き立てている。いつもは下ろしている長い白金の髪は、おばあちゃんの手によって綺麗にアップにまとめられ、夕闇の中で、彼女の白く細いうなじが息を呑むほど眩しく浮かび上がっていた。
「おばあちゃんたちに、寄ってたかって着付けされちゃって……。……その、変、かな?」
怜奈は浴衣の袖を少し持ち上げ、上目遣いに蒼太の顔を覗き込んできた。いつもなら完璧な微笑みの盾で男たちを拒絶する彼女が、今は自分の感想を待って、ほんのりと頬を桜色に染めている。
「……可愛い。いや、すごく綺麗だ」
語彙力が完全に死んだ蒼太の真っ直ぐな言葉に、怜奈は一瞬驚いたように目を見開いたあと、さらに顔を赤くして、パタパタと手で顔を仰いだ。
「もう……なんだか恥ずかしいですわね。……じゃあ、い、行きましょう……ですわ」
夕暮れ時の、群青色へと溶けていく田舎の道を、二人は並んで歩き始めた。
下駄の音と甚平の擦れる音がどこか心地いいリズムを刻む。しかし、神社の鳥居が近づくにつれ、昼間の静寂が嘘のような熱気と、凄まじい人混みのざわめきが押し寄せてきた。
地元の子供たちや帰省客で、狭い参道はごった返している。あちこちの屋台から立ち上るソースの匂いや、白熱灯の強い光が、お祭りの特有の高揚感を煽っていた。
「きゃっ……!?」
正面から走ってきた子供を避けるため、怜奈が体をすくめた。下駄に慣れていないせいで足元がふらつき、白金のハーフアップならぬアップにした髪がぴょこぴょこと揺れる。
蒼太はポケットのスマホに手を伸ばしたが、画面には相変わらず冷酷に圏外の文字が躍っている。
(やばいな……この人混みで、もしはぐれたら、絶対に連絡が取れない)
焦る蒼太の甚平の袖を、怜奈の指先がツンツンと控えめに突いた。
「……蒼太くん。あの、スマホ、繋がりませんわよね?」
「うん。完全に圏外。はぐれたら、もう探せないと思う」
「……そうですわよね」
怜奈は、いつもの伊達メガネのブリッジをクイと人差し指で上げた。けれど、その目は人混みの多さに完全に圧倒されていて、不安げに泳いでいる。彼女は、いつもならブラウスの袖口を握りしめる両手を、今は浴衣の袂のあたりでぎゅっと縮こまらせていた。
「……はぐれたら、わたくし、もう蒼太くんに会えませんわよ?」
上目遣いのアクアの瞳が、じっと蒼太を見つめる。
「……手、繋ごう」
蒼太の口から、自然と言葉が出ていた。
「え……?」
「ほら、お母さんたちにも、ちゃんと面倒見てねって言われてるし。はぐれたら困るから」
蒼太は少しぶっきらぼうに言って、右手を差し出した。
怜奈は一瞬、お嬢様の仮面を被り直そうとするかのように唇を引き結んだが、すぐに観念したように、小さく息を吐いた。そして、浴衣の袖から、白くて細い、小さな手をゆっくりと伸ばしてきた。
そっと、お互いの手のひらが重なる。
「――っ」
蒼太の背中に、電撃のようなドギマギとした緊張が走った。繋いだ怜奈の手は、学校の委員長としての冷徹なイメージとは真逆の、驚くほど柔らかいものだった。まだ骨が細くて、11歳特有の、マシュマロのようにはかなくて柔らかい感触。少し緊張しているのか、手のひらはほんのりと汗ばんでいて、ぎゅっと握り返してくる強さがそのまま彼女のドキドキを伝えてくるようだった。
「……これで、はぐれませんわね」
怜奈は真っ直ぐ前を向いたまま、ボソッと呟いた。横顔しか見えないけれど、アップにした髪の隙間から覗く耳の付け根が、提灯の赤い光よりも鮮やかに染まっているのが分かった。
繋いだ手のひらから伝わってくる、生々しいほどの女の子の柔らかさと体温。浴衣の藍色の匂いに混ざって、彼女のうなじのあたりから淡いシトラスの香りがふわりと漂うたびに、蒼太の心臓は破裂しそうになっていた。
都会のルールや学校の平行線なんて、この柔らかい手の感触の前には何の意味も持たなかった。二人は互いの体温をしっかりと確かめ合うように手を繋いだまま、まばゆい光を放つ屋台の波へと、一歩を踏み出していくのだった。