翌日。陽葵に強引に生垣の向こう側へと引っ張り込まれてから、晴斗の頭のメモリは完全に「夏休み仕様」に書き換えられつつあった。
とはいえ、一日中虫捕りをするほどの体力はない。ネット動画という最高の暇つぶしを奪われた晴斗が、悩んだ末に行き着いたのは、男子のロマンの結晶――『秘密基地作り』だった。
実家の裏手にある、小さな雑木林。そこにある大きなクヌギの木の根元に、晴斗は落ちている手頃な枝を集め、拾ってきたブルーシートを被せて、一人でせっせと壁を作っていた。
「よっと……これで少しは基地っぽくなったか?」
額の汗を拭い、泥のついた手を腰に当てて満足感に浸っていると、背後のヤブがガサガサと大きく揺れた。
「おーい、晴斗! 何してんのーっ?」
ヤブを豪快にかき分けて現れたのは、今日も鮮やかな黄色いマウンテンパーカーを腰に巻き、アクティブなショートパンツ姿の陽葵だった。手には、どこから持ってきたのか年季の入った軍手をはめている。
「……秘密基地。暇すぎてさ」
晴斗が少し照れくさそうに言うと、陽葵のアクアの瞳が、まるで宝箱を見つけた子供のように「ぱあ」と輝いた。
「嘘、秘密基地!? めっちゃいいじゃん! 私も混ぜてよ!」
「え? 男子の趣味だぞ、こういうの」
「何言ってんの、女子だって秘密基地くらい作りたいし! ほら、そこのやつ、私がもっと頑丈にしてあげる!」
都会の教室にいた頃の陽葵なら、男子のこんな泥臭い遊びには目もくれず、女子グループの輪の中でクールに笑っていたはずだった。なのに、今の彼女は完全にブレーキが壊れている。
陽葵はズカズカと敷地内に乱入してくると、雑木林の隅に放置されていた、古びた木製の物流用パレットに目を付けた。大人がすのこ状に組んだ、しっかりとした木の板だ。
「晴斗、これ使いなよ! 壁にするのに丁度いいじゃん」
「おい、それ一人じゃ無理だろ」
「だから、二人で持つんだってば! ほら、せーのっ!」
軍手をはめた陽葵の手が、晴斗のすぐ隣でパレットの端を掴む。
「せーの……っ!」
息を合わせて持ち上げた瞬間、パレットのズッシリとした質量が二人の腕にかかった。同時に、陽葵の身体がぐっと晴斗のゼロ距離まで引き寄せられる。
(……近、)
彼女が小さな身体でグッと踏ん張った瞬間、腰に巻いた黄色いマウンテンパーカーの裾が大きくズレ上がった。アクティブショートパンツのデニム生地と、サマーTシャツの裾の隙間。そこに、一瞬だけ剥き出しになった「脇腹から腰にかけての、滑らかなくびれの白いライン」。
都会のドッジボールの剛速球を支えていた、しなやかな体幹が、衣服のゆらぎの中から不意に質量を持って飛び出してきた。
晴斗の視界のピントが、そのノーガードの空白地帯に完全にフリーズ(固定)される。力仕事のせいで、すぐ隣の陽葵の皮膚から、夏の陽射しを吸い込んだような「熱い体温の風」がダイレクトに晴斗の顔を打った。
「ふぅ……っ! よし、設置完了!」
パレットをクヌギの木に立てかけ、壁の補強を終えた陽葵が、額の汗を拭いながら「にひひ」と笑う。晴斗は、自分の心臓がパレットの重さとは違う理由でバクバク言っているのを必死に隠しながら、あえてぶっきらぼうに視線を逸らした。
「お、おう……お前、意外とガチだな」
「当たり前じゃん。やるからには誰も見つけられない最強の基地にするんだから! ……あ、そうだ晴斗。最後にさ、これ立てようよ」
陽葵が草むらから嬉しそうに拾い上げて見せたのは、先端が綺麗に三つ又に分かれた、一本の奇妙な形の流木だった。
「何これ。ただの枝?」
「バカだなぁ、アンテナだよ、アンテナ! ほら、ここ、携帯の電波全然入んないじゃん? だから、ウチらの基地の特製アンテナ!」
陽葵はそう言うと、パレットの隙間にその流木をグサリと突き立てた。電波なんて1ミリも拾えない、ただの偽物の木製のアンテナ。だけど、二人でそのシンボルを見上げている時、晴斗の胸には、都会のノイズなんてどうでもよくなるほどの、奇妙な満足感が満ちていた。
「よし、これで『圏外の秘密基地』、開局だね!」
満足そうに胸を張る陽葵。それから二人は、日が傾き始めるまで時間を忘れて作業に没頭した。
「晴斗、そっちのロープ引っ張って!」
「分かった、ひまわり、そこ押さえててくれ」
「だから『ひまり』だってば! ……ま、基地の副隊長に免じて許してあげるけどね!」
にひひ、と前歯を覗かせて笑う陽葵の顔には、いつの間にか黒い泥がべったりとついている。
都会のノイズも、他人の目も、スマホの通知音すらも一切届かない、静かな裏山。ガサガサと葉が擦れ合う音と、二人の荒い息遣いだけが響く空間で、晴斗は不意に手を止めた。
西日が、陽葵の短い髪をオレンジ色に透かしている。汗で額に張り付いた髪を無造作に払うその横顔が、泥だらけなのに、驚くほど眩しくて、綺麗だった。
「……何、晴斗? 私の顔になんかついてる?」
「あ、いや……泥、ついてるぞ」
「えっ、どこどこ?」
陽葵が自分の頬を軍手でゴシゴシと擦る。余計に泥が広がっていくのを見て、晴斗は思わず吹き出した。
「あはは! 逆、もっとひどくなった!」
「もーっ! 笑うなら晴斗が拭いてよ!」
ぷくーっと頬を膨らませて、生垣の向こうの住人だったはずの陽葵が、一歩、晴斗のパーソナルスペースへと踏み込んでくる。
晴斗の胸の奥で、まだ名前のない静かな独占欲が小さく産声をあげる。
ただのクラスメイトだった二人の距離が、偽物のアンテナの下で、急速にバグり始めていた。