「開局」したばかりの秘密基地をさらに充実させるため、翌日、二人のアクティブな夏は「食料調達ミッション」へと移行していた。
「ほら晴斗,シャキシャキ歩きなよ! じいちゃんに教えてもらった最高の穴場スポット,もうすぐそこだから!」
おなじみの黄色いマウンテンパーカーの裾を揺らしながら,陽葵は手慣れた足取りで山道を下っていく。その後ろを,じいさんから借りた2本の竹竿を担いだ晴斗が,息を切らせながら追いかけていた。
森が開けた瞬間,目の前に現れたのは,都会では見たこともないような透明な渓流だった。
ゴツゴツとした岩肌を,白い飛沫を上げて流れる激しい水の音。ネットの動画で見るどんなASMRよりも,その自然の爆音は晴斗の鼓膜を心地よく震わせた。
「すっげえ……本当に魚いんの?」
「いるに決まってんじゃん! ほら,この岩の裏の,流れが緩やかになってるところ!」
陽葵はスニーカーを脱ぎ捨てると,躊躇なく素足を水の中に突っ込んだ。
ショートパンツの下から伸びる健康的な太ももが,夏の太陽に照らされて眩しいほど白く光っている。
「冷たっ! 最高! 晴斗も早く来なよ!」
促されるまま,晴斗も足を水に浸す。
「――っ!」
一瞬で脳の芯まで突き抜けるような,暴力的な冷たさ。都会のアスファルトの熱気にやられていた身体が,一気に「オフラインの現実」へと引き戻される感覚。
二人は並んで岩に腰掛け,じいさんの特製ネリ消しのような餌を針につけて,糸を垂らした。
都会のノイズが一切ない世界での釣りは,驚くほど静寂だった。
スマホはただのカメラとしてリュックの底に沈んでいる。電波がないから,お互いを見るしかない。
「……ねえ,晴斗」
陽葵が,水面を見つめたままポツリと呟いた。
「学校の時さ,私,なんかちょっと無理してたかも」
「え?」
「なんか,女子のグループとかあるじゃん? 流行りの動画の話とか,誰がカッコいいとか。合わせなきゃいけない気がして。でも本当はさ……こういう風に泥だらけで遊ぶ方が,百倍楽しいんだよね」
アクアの瞳を少しだけ寂しそうに細めて笑う陽葵。学校での「クールな野生児」という仮面の下にある,等身大の11歳の本音だった。
「俺も……ここに来て,スマホ使えなくて最悪だって思ったけど。今は,ひまわりと基地作ったり釣りしたりする方が,動画観るよりずっと面白い」
「……ほんと?」
陽葵が嬉しそうに顔をこちらに向けた,その時だった。
ググッ!!! と,陽葵の持つ竹竿が激しくしなった。
「わっ,ちょっと,きた!? 晴斗,大物かも――っ!」
急に強い力で引かれた陽葵が,苔でヌルヌルになった岩場で,大きくバランスを崩した。
「危ないっ!」
晴斗は反射的に自分の竿を放り出し,陽葵の身体を目がけて飛びついた。
ガシッ,と両腕で抱き止めたのは――陽葵の,驚くほど細くて柔らかい腰だった。
バシャバシャバシャッ!!! と,二人の足元で激しい水飛沫が上がる。
川のせせらぎの音は,相変わらず大音量で鳴り響いている。
なのに,晴斗の耳には,自分のドクドクという心臓の音しか聞こえなくなっていた。
腕の中に,陽葵の体温がダイレクトに伝わってくる。
水を浴びて濡れた,シトラスのシャンプーの香りと,少女特有の生暖かくて甘い匂い。
密着した陽葵の小さな背中が,晴斗の胸の中でドクン,ドクンと激しく脈打っているのが分かった。
「……あ」
陽葵が,小さく声を漏らす。
いつもなら「ありがと!」と豪快に笑うはずの野生児が,晴斗の腕の中で完全にフリーズしていた。
ゆっくりと離れる。
お互いの顔の距離は,わずか十数センチ。
陽葵の耳の付け根から,首筋にかけて,みるみるうちに真っ赤な赤面(バグ)が広がっていく。
アクアの瞳が,見たこともないほど潤んで,せわしなく泳いでいた。
「……ご,ごめん。ありがと」
陽葵は蚊の鳴くような声で呟くと,ショートパンツの裾をギュッと握りしめ,パッと顔を背けてしまった。首筋を流れる汗が,西日にきらりと光る。
渓流の冷たい水の真ん中で,二人の間だけが,まるで熱帯夜のように生温かく沸騰していた。
泥だらけの幼馴染が,明確に「男の子と女の子」に書き換わった瞬間だった。