渓流でのあの「ゼロ距離」の一件以来、二人の間の空気は少しだけ変わっていた。相変わらず一緒にバカやって遊んではいるものの、ふとした瞬間に目が合うと、どちらからともなく「あ……」と気まずそうに視線を外してしまうのだ。
けれど、迫り来る田舎の夜は、そんな二人の絶妙な距離感をさらに狭めていく。
「よし、これをこうして……あとは焼酎をドバッと入れて、混ぜる!」
夕暮れ時、秘密基地の前。陽葵はバケツの中の「特製カブトムシの餌(ベイト)」を、木の枝で豪快にかき混ぜていた。バナナを潰して黒砂糖と焼酎を混ぜた、小学生にはちょっと刺激的な甘酸っぱい匂いが、夏の生温かい空気に混ざって鼻をくすぐる。
「……なぁ、それ本当にカブトムシ寄ってくるのか?」
晴斗が恐る恐る覗き込むと、陽葵はバケツから顔を上げ、いつものように「にひひ」と笑った。
「ウチのじいちゃんの直伝だもん、絶対くるって! ほら、暗くなる前にクヌギの木に塗りに行くよ!」
バケツを持ち上げた陽葵の手は、潰れたバナナの果汁でベタベタになっていた。夕暮れの裏山は、ヒグラシのカナカナカナ……という切ない大合唱に包まれている。オレンジ色から深い紫へとグラデーションしていく空が、二人の影を長く、淡く地面に伸ばしていた。
大きなクヌギの木の前に着くと、二人は交代で幹の表面にベイトを塗りたくった。
「うわ、手がベタベタする……」
「あはは、晴斗、塗り方下手くそ! 樹皮の隙間にこうやって押し込むんだよ!」
陽葵が晴斗の手の上から、自分の手を重ねるようにしてハケを動かす。
「――っ」
昼間の渓流での感触がフラッシュバックして、晴斗の指先がピクッと跳ねた。陽葵も自分の行動にハッとしたのか、すぐに手を引っ込める。
「……あ、ごめん。つい」
陽葵はバケツを持ったまま、もじもじとローカットのスニーカーの先で地面を小突き始めた。夕闇が迫る木陰のせいで、彼女の顔の赤さはよく見えない。けれど、その首筋が耳の後ろまでほんのりと染まっているのは、晴斗にもはっきりと分かった。
二人のスマホは、どちらもポケットの中で完全に黙り込んでいる。通知のバイブレーションも、SNSのタイムラインも存在しない。あるのは、風に揺れる葉の音と、特製ベイトの甘い匂い、そして――お互いの、少し早くなった呼吸の音だけだ。
「ねえ、晴斗」
クヌギの木を見上げたまま、陽葵がぽつりと呟いた。
「夏休み、もう半分終わっちゃうんだね」
「……そうだな」
「二学期になって都会の学校に戻ったら……ウチら、どうなるのかな」
いつもアクティブな陽葵の声が、今までにないくらい小さく、頼りなく震えていた。
「学校だとさ、みんな周りの目を気にするじゃん? 私が晴斗とばっかり話してたら、絶対なんか言われるし……」
陽葵は、腰に巻いた黄色いマウンテンパーカーの袖をギュッと握りしめる。
「だから、その……。学校に戻ってもさ、私のこと、たまにでいいから『ひまわり』って呼んでよ。そしたら私、秘密基地のこと、思い出せるから」
少し潤んだアクアの瞳が、夕闇の中で晴斗をじっと見つめていた。都会の学校での「クールな野生児」でもない、ただの11歳の女の子が、そこにいた。
「呼ぶよ」
晴斗は、真っ直ぐに陽葵の目を見て答えた。
「毎日呼んでやるよ。『おい、ひまわり』って。だからお前も、俺のことちゃんと呼べよ」
晴斗の言葉に、陽葵は一瞬だけ驚いたように目を見張った。それから、夕闇の静寂を吹き飛ばすような、今日一番の「ひまわり」みたいな笑顔を咲かせる。
「……うん! 約束だからね、晴斗!」
ベタベタになった彼女の手が、晴斗の小指に、そっと絡みついてくる。ネットの海にはどこにも残らない、アンテナ圏外のクヌギの木の下で、二人の「小さな秘密」がまた一つ、深く深く刻まれていった。