第5話:満開の向日葵畑と、ただのカメラになったスマホ

あの夕暮れの約束から数日。夏休みは、まるで坂道を転がり落ちるようにそのスピードを上げていた。

「晴斗,早く早く! じいちゃんが『今が一番見頃だ』って言ってた場所,すぐそこだから!」
陽葵の弾むような声が,カンカンと照りつける太陽の下に響く。
今日も彼女は,お気に入りの黄色いマウンテンパーカーを,白いキャミソールの上に羽織っていた。すっかりこの田舎の気候に馴染んだ晴斗は,青いTシャツの首元をパタパタと仰ぎながら,その後ろを歩く。

急な坂道を登りきり,視界が一気に開けた瞬間――晴斗は息を呑んだ。
「……すげえな,これ」

そこにあったのは,見渡す限りの【黄色】の世界だった。
晴斗の背丈よりも高く伸びた,何千,何万本もの向日葵。それが,突き抜けるように青い夏の空(晴斗の青)に向かって,一斉に大輪の花を咲かせている。

「にひひ,圧倒されたでしょ!」
陽葵は麦わら帽子を手で押さえながら,満開の向日葵の迷路の中へとズカズカと飛び込んでいった。
黄色い花の中に,彼女の黄色いマウンテンパーカーが溶けていく。まるで,陽葵自身がこの向日葵畑の精霊にでもなってしまったかのような,眩しい錯覚。

ポケットの中で,スマホが小さく震えた気がした。
取り出してみるが,画面の左上は相変わらず冷酷な『圏外』のままだ。通知が来たわけじゃない。ただのバッテリーの熱だった。
けれど,今の晴斗にとって,この鉄の板は情報を得るための道具ではなかった。

「なぁ,ひまわり! ちょっとこっち向いて!」
「ん? なに――」

向日葵の隙間からひょっこりと顔を出した陽葵に向けて,晴斗はスマホのレンズを向け,画面をタップした。
カシャ,と乾いたシャッター音が響く。

画面の中に収まったのは,満開の向日葵と,青い空,そして――レンズを見つめて,少し驚いたようにアクアの瞳を丸くしている陽葵の姿。
次の瞬間,自分が不意打ちで撮られたことに気づいた陽葵の顔が,向日葵の黄色に負けないくらい真っ赤に染まった。

「なっ……! ちょっと晴斗,何勝手に撮ってんのよ!」
「いや,なんか,めちゃくちゃ景色が綺麗だったから……」
「景色じゃなくて私を撮ったじゃん! 恥ずかしいから消して!」

陽葵は向日葵をかき分けて,晴斗の手からスマホを奪い取ろうと詰め寄ってくる。自然と,二人の距離がまたゼロになる。
「ヤダ。これ,俺の夏休みのベストショットにするから」
「な,なに言って……ば,バカ晴斗っ!」

スマホの画面を隠す晴斗の腕の隙間から,陽葵が至近距離で覗き込んでくる。
風が吹き抜け,向日葵の大きな葉がガサガサと音を立てた。陽葵の濡れたショートカットから,あのシトラスの香りがふわりと漂い,晴斗の鼻腔をくすぐる。

電波の繋がらないこのスマホのメモリには,都会の友達のSNSの投稿も,流行りのネットニュースも入ってこない。
だからこそ,この「ただのカメラ」になった機械の中には,目の前の向日葵と,汗をかいて顔を真っ赤にしている陽葵の,最高純度のデータだけが永久保存されていく。

「……本当にお前,ひまわりみたいだな」
晴斗がポツリと呟くと,陽葵は動きを止め,潤んだ瞳で晴斗をじっと見つめた。
「……晴斗のバカ。そんなの,今さら気づいたの?」

陽葵は小さくハチミツが溶けたような声で微笑むと,今度は自分のお古のスマホを取り出して,晴斗に向けた。
「はい,晴斗もこっち向いて。お返し!」
カシャ。
今度は晴斗の,少し照れくさそうに笑う「青」が,陽葵のスマホの中に保存される。

世界から完全に隔離された向日葵の迷路の中で,二人は何度もお互いのシャッターを押し続けた。オンラインの世界には決してアップロードされることのない,二人だけの秘密のアルバムが,真夏の光の中でどんどん満たされていった。