ガタゴトと、規則的な振動だけが車内に響いている。
電波が完全に死滅し、ただの鉄の板と化したスマホをポケットにしまい、晴斗はふう、と深く息を吐いて座席の背もたれに体重を預けた。
都会の喧騒も、鳴り止まない通知のノイズもない。15年ぶりに訪れた圧倒的な静寂が、すり減った心にじわじわと染み渡っていく。
その時、電車のドアが開き、一人の女性が車内へと入ってきた。
カツ、カツ、と静かな車内に小気味いいヒールの音が響く。
すれ違いざま、晴斗の鼻腔をかすめたのは――どこか懐かしい、弾けるようなシトラスの香調を帯びた、洗練された香水の匂いだった。
晴斗は何気なく、斜め向かいのシートに座ったその女性へと視線を向けた。
息を、呑んだ。
そこにいたのは、誰もが思わず振り返るような、洗練された超美人のキャリアウーマンだった。きっちりとしたテーラードジャケットを着こなし、膝の上には高級そうなビジネスバッグ。都会の最前線でバリバリと戦っていることが一目で分かる、冷徹なほどに完璧な美しさ。
彼女はシートに腰掛けると、手慣れた動作でスマートフォンを取り出した。だが、画面の左上に表示された【圏外】の文字を見て、ふっと美しく、どこか寂しそうに眉根を寄せた。
諦めたようにスマホをバッグに仕舞い、彼女が顔を上げる。その瞬間、澄み切ったアクアの瞳が、真っ直ぐに晴斗を捉えた。
「――っ」
15年という歳月が一瞬で吹き飛び、頭の奥にある過去の記憶が猛烈な速度で蘇っていく。ショートカットだった髪は、今は美しいセミロングになって肩に流れている。大人の女性の気品に満ちあふれている。けれど、その奥にある瞳の輝きは、あの夏の向日葵畑で、泥だらけになって笑っていた彼女そのものだった。
女性の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
「……晴斗?」
15年ぶりに呼ばれた、懐かしい響き。その声は、都会のどんな高音質なオーディオよりも鮮明に、晴斗の胸の奥深くへと突き刺さった。
「……ひまり,なのか?」
二人は、どちらからともなく席を立ち、引き寄せられるようにしてローカル線の古い降車ホームへと降り立った。
目指す場所は、一つしかなかった。
緑が生い茂る山道を、二人は無言で歩いた。都会的なヒールを泥で汚しながらも、陽葵の足取りは、あの小5の夏の野生児そのものだった。
たどり着いた、裏山のクヌギの木。
15年という歳月は残酷で、二人で必死に組んだ丸太もブルーシートも、跡形もなく朽ち果て、ただの自然の土へと還っていた。
「……やっぱり,形なんて残ってないね」
陽葵が少し寂しそうにクスッと笑う。その横顔に、あの夏の日のオレンジ色の西日が重なった。
「いや,残ってるさ。一番大事なものは,ここにある」
晴斗はクヌギの硬い根っこの隙間、15年前に二人で手を泥だらけにして掘った場所を、持ってきた小さなスコップで夢中で掘り返した。
ザク、ザク、と土を退けていくと、金属製の鈍い音が響く。
土の中から現れたのは、ひどく赤錆びて泥まみれになった、あの小さな真鍮の茶筒だった。フタの隙間を覆うビニールテープは硬く硬化し、土の圧力でボロボロになっていたが、11歳の晴斗がこれでもかとぐるぐる巻きにした痕跡が痛々しいほどに残っている。
「本当に,あった……」
陽葵が口元を両手で覆い、瞳からぽろぽろと大粒の涙をこぼす。晴斗は震える手で、化石のように固くなったビニールテープを力任せに剥ぎ取り、二重になったフタをパカッと開けた。
頑丈な真鍮と、必死の防水対策に守られていた中身は、あの嵐の夜のままだった。少しの湿気も寄せ付けることなく、当時の白さを保ったままの2枚のノートの切れ端が、そこに静かに収まっていた。
お互いに背を向け合い、絶対に中身を見せないようにして詰め込んだ、あの夏の約束。
二人は並んで、それぞれの紙切れを広げた。
そこにあったのは、11歳の晴斗の、不器用で汚い文字。
『大人になったら、ひまわりと結婚する。約束だ』
商談用の書類やスマートなメールばかりを見てきた今の晴斗の目に、その子供っぽい殴り書きが、何よりも眩しく映る。
そして、もう一枚にあったのは、11歳の陽葵の、力強い文字。
『大人になったら、晴斗のお嫁さんになってあげる!』
15年の時を超えて、アンテナ圏外の土の底で完全保存されていた二人の答えが、100%完全に一致した。
「……っ,バカ晴斗。書いてること,全く一緒じゃん……」
陽葵は涙を流しながら、あの頃と全く同じ、ひまわりみたいな眩しい笑顔を咲かせた。彼女の白いブラウスの袖を、晴斗の青いシャツの手が、そっと手繰り寄せる。
「なぁ,ひまり」
晴斗は、15年前からずっと繋がったままだった小指を、彼女の前に差し出した。
「これってさ……有効期限とか,ないよな?」
都会のスマートな大人の余裕なんて、一瞬で吹き飛んでいた。小5の男の子に戻った晴斗の、少し不器用で真っ直ぐな確認。
陽葵は一瞬だけ驚いたように目を見張った後、愛おしそうに目を細め、自分の小指を晴斗の小指にきつく、きつく絡ませた。
「当然でしょ?w」
世界がどれだけオンラインで繋がり、目まぐるしく変わっていこうとも。
電波の届かないあの夏の秘密基地で交わした二人の約束は、今、何一つ色褪せることなく、最高のハッピーエンドへと結ばれた。